「環オホーツク海とロシア」取材レポート
北海道の大自然を満喫し、オホーツク文化人を探究、隣国ロシアを間近に感じ、地域間交流発展を祈念
オホーツク文化とロシア探訪の旅の概要報告 長 塚 英 雄(5月12日記)
オホーツク文化とロシア探究取材の旅は、2023年4月29日から5月3日のゴールデンウイークの休日を利用して行われました。コースは羽田空港―稚内空港―稚内市―猿払村―浜頓別町―枝幸町―紋別市―遠軽町―網走市―斜里町ウトロー羅臼町―中標津町ー根室市―厚岸町―釧路市―釧路空港―羽田空港の順で4泊5日で廻りました。
まず、探訪旅行の基礎(背景)にある2006年から開始された日本におけるロシア文化フェスティバルと北海道の関係について触れておきましょう。フェスティバルは北海道においては積極的に取り組まれてきました。主なものを列挙すると、2006年=ドン・コサック合唱団(札幌・函館・帯広)、タチヤーナ・ヴァラシュツォーヴァコンサート(道内各地)、ロシア・ソビエト映画祭(帯広)、ロシア人墓地慰霊文化祭(猿払ほか)、2007年=国立サンクトぺテルブルク・アカデミーバレエ公演(函館)、舞台芸術の世界―ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン(釧路)、ロマノフ王朝と近代日本展(函館)、ドミトリー・シシキンピアノコンサート(旭川、函館)、2009年=ソクーロフ監督「チェチェンへ。アレクサンドラの旅」公開ロードショー(札幌)、ワディム・レーピンヴァイオリンコンサート(札幌)、アンドレイ・ピサレフピアノリサイタル(札幌)、ニコライ・ルガンスキーピアノコンサート(札幌)、2010年=モスクワカルテットコンサート(札幌)、2011年=オープニングセレモニー&コンサート(函館=ロシア所蔵明治古写真展、チェブラーシカ展&ロシアアニメーション映画祭、国立ロシア民族舞踊アンサンブル公演、国立ボリショイサーカス公演、ロシア人墓地慰霊文化祭、オープニングレセプション)、2012年=二ヴフ民族アンサンブル&ロシア民族アンサンブルコンサート(岩見沢)、サハリン人形劇場公演(岩見沢)、タルコフスキー生誕80周年記念映画祭(札幌)、2013年=モスクワフィルハーモニー交響楽団コンサート(帯広、札幌)、トリオ「国境なきクラシック(ドムラ&ピアノ)」(札幌)、2014年=国立ボリショイサーカス公演(札幌)、ロシアアニメーションフェスティバル2014(札幌)、2015年=サハリン人形劇団公演(各地)、2016年=国立ボリショイサーカス公演(札幌)、サハリン人形劇団&サハリン民族アンサンブル公演(札幌ほか)、2017年=チェブラーシカ展(札幌)、アンドレイ・ブリウスバリトンコンサート(札幌),2018年=チェブラーシカ展(釧路)、サドコ民族楽器アンサンブル&加藤登紀子コンサート(札幌、東川)、2019年=スタニスラフスキー&ダンチェンコ記念音楽劇場V・ミキ―ツキー&A・ミキーツキ―デユオリサイタル(札幌)が開催・実施されました。コロナ禍の3年は開催できませんでしたが、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の首都圏に続いてたくさん推進された地域として特筆できます。日ロ首脳会談や日ロ交流年(2018-2019)を経過して近い将来、ロシア文化フェスティバルのオープニングセレモニーを函館(2011)に続いて札幌・稚内・紋別・根室などの諸都市での開催構想を抱いていましたが、コロナ&戦争が勃発し関係が悪化し困難に直面したことは遺憾に堪えません。
さて、取材旅行第1日目は、日本最北端の地・宗谷岬―間宮林蔵銅像―宗谷丘陵―宗谷岬ウインドファーム(風力発電)―宗谷公園―氷雪の門―大沼―稚内市樺太記念館・副港市場―市内商店街―ドーミーイン稚内―車屋源氏でした。
稚内は1週間まえには吹雪いて市内が雪で白一色でしたから心配されましたが、天候は曇りで雪は溶けてありませんでした。稚内空港でコートを着て出発、宗谷岬からサハリンは曇りで見えませんでしたが、宗谷丘陵の壮大な光景が展開されていました。ホタテ貝を活用したホワイトロードがロマンチックに続き、ふきのとうがあちこちに顔を出していました。シベリアへ帰る直前の白鳥たちは大沼で賑やかに楽しそうに遊んでいました。ロシア語の交通標識が随所に見られ、市街商店街=中央アーケード街にはロシア語の表示・看板があり、樺太記念館もありロシア色のある街ですが、コロナと戦争の影響で沿岸貿易が停滞し人口も減少、困難に直面している印象でした。
取材第2日目は、猿払村のインディギルカ号遭難慰霊碑―猿払道の駅―浜頓別町・クッチャロ湖―枝幸町・オホーツクミュージアムえさしで高畠孝宗館長が説明―紋別市・オホーツクとっかりセンター(アザラシ保護施設)―オホーツクスカイタワー(大山山頂園)―紋別プリンスホテルでした。インディギルカ号遭難慰霊碑のある公園の目前の海は大荒れで風が強く傘をさしておれないほどで、83年前の702人の犠牲者を出した遭難事件を想起させる荒天でした。枝幸町・紋別市はおだやかな天候でした。オホーツクミュージアムはオホーツク文化に関する重要な史料展示があり大変興味深いものでした。
取材3日目は、北海道立オホーツク流氷センターー道の駅オホーツク紋別―遠軽町芸術文化交流プラザー北海道家庭学校(軽部晴文校長の説明)―網走・北方民族博物館―ウトロ知床第一ホテルでした。「ステッセルのピアノ」は現在、芸術文化交流プラザ1階コンサートホールロビーに展示され、所蔵先の家庭学校の博物館&礼拝堂でその経緯をお聞きしました。説明してくださった軽部晴文校長によると、1906年頃に陸軍大臣寺内正毅大将から東京の家庭学校に寄贈されたものを1932年に北海道家庭学校に移送したもので、ドイツ製アップライト、黒漆塗りのピアノでした。1994年に復元したが現在は演奏できない状態にありました。ステッセル夫人の愛用したピアノと伝えられています。又、この家庭学校の博物館に後期旧石器時代の黒曜石の石器がたくさん保管展示されていることに驚きました。遠軽町にある「北海道白滝遺跡群」から出土した黒曜石の石器など1900点は国宝に指定されているのです。オホーツク流氷科学センターの展示と科学研究はオホーツク海と北極の最新科学研究を示しており、「北極域」の地図は大変印象に残りました。
取材4日目は、知床五湖高架木道―羅臼(国後島がきれいにみえる)―上武佐ハリストス正教会(矢本信者代表)―風連湖・道の駅スワン44-根室ときわ公園・ラクスマンモニュメントー西浜墓地・小市の記念碑―根室歴史と自然の資料館(猪熊樹人学芸員が説明)―納沙布岬・望郷の家&北方館―海陽亭―魚河岸浜作でした。知床の自然は美しく、雄大な羅臼岳、そしてウトロから羅臼に出る雪の峠(知床横断道路)の正面に現れた国後島はまじかに綺麗で神秘的に見ることができましたが、根室からは歯舞諸島は曇りでよく見えませんでした。上武佐ハリストス正教会に展示された「ハリストス復活」など山下りんの16点のイコン画は貴重なもので光り輝いていました。根室資料館にあるサハリンの日露国境標石は日本にある唯一のオリジナル標石でした。日本とロシアの外交関係のはじまりは1792年のラクスマンの根室来航からであり、漂流民大黒屋光太夫らも含めそれらの貴重な史料があることはこの資料館の存在意義を高めています。西浜墓地の漂流民・小市の墓・記念碑を訪ねることができたことは嬉しいことでした。
取材5日目は、厚岸・道の駅コンキリエ―釧路湿原展望台―釧路ハリストス正教会(内田圭一司祭の説明)―和商市場―港文館(石川啄木資料館)―釧路空港でした。寒さの厳しい根釧原野における開拓事業、牧畜農業などの血と汗の移住事業の過酷さは本州の都市住民には想像を超えるものです。明治時代からの波乱万丈のハリストス正教会の歩んだ歴史、釧路湿原の自然保護のたたかい、和商市場の庶民的にぎわいの中に北海道開拓の苦難とフロンティア精神を感じました。
稚内からオホーツク海沿岸を根室・釧路まで縦断する大胆な取材コースの選択は、二度と体験することはないに違いありません。沿岸市町村はオホ―ツク海文化・経済をメインスローガンに地域振興を盛り上げており独自の新鮮な息吹きを感じると同時に、新型コロナウイルス禍、ウクライナーロシア戦争における対ロ制裁の影響による日ロ沿岸貿易・経済交流の沈滞化を感じました。
オホーツク総合振興局管内には、われわれが旅行した網走市・紋別市・斜里町・遠軽町など18の市町村が含まれており、過疎対策、山村振興、豪雪対策、工業開発、オホーツク北網地方拠点都市形成のほかにオホーツク科学文化交流拠点構想が推進されています。
又、北海道では以下の14市町村がロシア連邦、とくにサハリン州と15の友好都市提携をむすんでいます。
旭川市―ユジノサハリンスク市
釧路市―ペトロパブロフスク・カムチツキー市
根室市―セベロクリリスク市
札幌市―ノボシビルスク市
小樽市―ナホトカ市
石狩市―ワニノ市
稚内市―ユジノサハリンスク市
函館市―ウラジオストク市、ユジノサハリンスク市
名寄市―ドリンスク市
紋別市―コルサコフ市
留萌市―ウラン・ウデ市
中頓別町―オジョ―ルスキイ村
猿払村―オジョールスキイ村
天塩町―トマリ市
本ツアーのテーマのひとつ、オホーツク文化の探究について言及するならば、オホーツク文化人は一体誰なのかということについて、オホーツク文化研究の中心都市、紋別でのシンポジュームをまとめあげた『環オホーツク』(1993年、紋別市立郷土博物館・図書館)は、次のように第一線専門家の見解をまとめているので紹介します。
「北海道、南カラフト、南千島に拡がるオホーツク文化の源流は、アムール中・下流域の靺鞨(まっかつ)文化と密接な関係をもっている」(加藤晋平)
「葬制を見る限りではオホーツク文化を残したのは「南樺太、北海道東部、南千島に居住しているアイヌ人の直接の祖先であったことは確実である」」(藤本強)
「網走モヨロ貝塚人にもっとも近い集団は、サハリン・アイヌ、ギリヤーク、ウルチであり、なかでもアムール川下流にいるウルチに近い」(山口敏)
「中国史書「通典」その外の記録に記述される「流鬼」の習俗が、サハリンのニヴフと類似。オホーツク文化が形成された年代と「流鬼」が記録された年代が合致し、よってオホーツク文化を作ったのは二ヴフ(旧ギリヤーク)である。」(菊池俊彦)
「開原新志」や「遼東志」にある苦兀(くごつ)「元史」にある骨嵬(こつかい)がオホーツク文化人であり、後代にサハリン・アイヌと呼ばれたグループである。」(大井晴夫)
「日本書紀「斉明4~6年(658~660年)」記事に、安倍臣比羅夫が東北地方(または北海道)の蝦夷を制圧した記録があり、この記事にミシハセと呼ばれる民族がいる。この民族が日本海沿岸を南下してオホ―ツク文化の古い段階の鈴谷式土器をもってきたグループである。」(石附喜三男)
著名な6人の研究者の見解はそれぞれに根拠があるものですが、枝幸の無人島に遺跡が発見されるなど今後の新しい研究成果の積み重ねが期待されます。
2020年、北海道が策定した「北海道・ロシア地域間交流推進方針~北海道・ロシア未来交流プラン~」に基づき、北海道経済の活成化と外交交渉の後押しをめざしていますが、ウクライナーロシア戦争による対ロ制裁でかつてない交流中断・後退に追い込まれているのが実情です。しかし、北海道は日本で最もロシアに近く、日ロ漁業交渉はもとより隣国との経済交流が道民の生活向上と繁栄には不可欠なことはいうまでもありません。オホーツク圏においては、オホーツク文化を形成した北海道・サハリン・沿海州・カムチャツカ・アラスカ・千島列島・アリュ―シャン列島などの北方諸民族の歴史探究なくしては解明することはできないのであり、そのためにはロシア、日本、アメリカの協力・共同が必要なことは誰の目にも明らかです。一日も早い停戦・終結・平和回復で、2026年の日露国交回復70周年・日本におけるロシア文化フェスティバル20周年を迎えたいものです。今回のオホーツク探訪旅行がそのようなテーマにいささかでも貢献することを祈念するものです。
オホーツク文化について 荒井雅子
本年の4月29日から5月3日までオホーツク海沿岸を辿った旅行は、私にとって大きな発見となりました。初めて「オホーツク文化」に触れたのです。
小学校から、我々は日本史を学んでいます。どんなふうに学んだか、そして今の子どもたちがどんなふうに日本史を学び始めるかを再確認するため、一例として小学館版学習まんが『日本の歴史』第1巻の内容を小学館の公式サイトから引用します。「…日本列島に人びとが暮らし始めた今から約3万8000年以上前の旧石器時代から縄文時代、弥生時代、古墳時代までを扱います。過酷な環境を人びとが生き抜いた旧石器時代。定住化や土器の使用などが見られるようになった縄文時代。稲作や金属製の道具や武器が伝わり、大規模な集団である「クニ」が日本各地に誕生する弥生時代。…といった、はるか昔の日本列島での人びとの営みを、最新の学説を元に描いていきます。」そして付随して「縄文文化」、「弥生文化」…の遺物が図録などで紹介されます。
ここには「オホーツク文化」はありません。今回の旅行に参加するまで、恥ずかしながら私はその存在を知らなかったのです。
「オホーツク文化」とは、今回5月1日午後に訪れた北方民族博物館(網走市)の「北海道立北方民族博物館総合案内」(第六版、令和元年12月31日発行)によれば「およそ紀元六世紀から11世紀にかけて、北海道の北部から東部にかけて、独特な文化が形成されたのだった。おもにオホーツク海沿岸を活動の舞台にしていたことから、この文化は「オホーツク文化」とよばれている。…この文化の遺跡は、北海道のオホーツク海沿岸ばかりでなくサハリン島や、千島の島々にも分布している。遺跡や遺物から、この文化をになっていた人びとはサハリン島から海峡を越えて南下し、北海道の北部オホーツク海沿岸(一部は北部日本海側)から海岸沿いに東部地域へと、さらに千島にまで生活圏をひろげていったと考えられている。」
オホーツク文化の人びとは、海獣類や魚介類を獲って生活していたとされます。土器、石器、木器、動物の骨や角を使った道具が出土されています。そして面積が100平方メートルをこえるような大きな竪穴住居の跡が発見されています。
「オホーツク文化」を担っていた人びとは、今のアイヌの人びととは違うようです。出土した「オホーツク土器」は「本州の縄文・弥生の土器でもなくアイヌ遺跡の土器でもない…異風な土器」です。(司馬遼太郎『街道をゆく38 オホーツク街道』)
同書によれば「紀元前三〇〇年に入った弥生式の水田耕作というのは食糧を恒常的に確保するという点では便利であった。…東北地方はやがて弥生文化でおおいつくされる。…が、当時の北海道は稲作の不適地だったので、弥生人はここまで侵入して来なかった。北海道には、ながく縄文人が残った。かれらは縄文のゆたかな暮らしをつづけ、やがて鎌倉時代に変化する。…「アイヌ文化」とよばれる新文化が成立したのである。…その変化には、触媒があった。それより前から入り続けていた「オホーツク文化」である。縄文とはまったくちがった異種文化だった。」
ではオホーツク文化の担い手たちは、どうなったのでしょうか。これは長塚氏の総括にもありますが諸説あり、撤退したと考える人もいれば、新しい文化を担う人びとに吸収されたと考えている人もいます。北方民族博物館で展示されている、様々な国に在住する「北方民族」の人びとの暮らしや文化を見ると、どれもが「オホーツク文化」の遺物に似ているような気もしました。
ところでオホーツク文化についての展示は、我々が訪れたところだけでも、オホーツクミュージアムえさし(枝幸町)、歴史と自然の資料館(根室市)だけではなく、「道の駅」に併設された北海道立オホーツク流氷科学センター(紋別市)にもありました。オホーツク文化は、北海道の人びとには身近な存在なのではないかと思います。
それなのになぜ小中および高等学校の日本史で触れられていないのでしょうか。知り合いの歴史研究者によると、まず出土された遺物の数が縄文・弥生のものと比べると桁違いに少ないため。そして、より北方や大陸にも「オホーツク文化」の形跡があるのに、その研究成果が知られておらず全容の解明にはとてもとても遠いため、教科書に載せても良い「定説」とされる段階にはまだないのだそうです。
教科書に載せられる「定説」にしたい、全容を解明したい、なのに情勢が許さない、-そのようなもどかしい思いを抱えている人も少なくないのではないかと想像します。
オホーツク文化の遺跡がないはずがない、ロシア。天候が許せば見える土地。オホーツク文化の全容解明には、現地の研究者たちと自由に行き来し、共同で発掘調査や意見交換をすることが不可欠なのではないでしょうか。そんな時代が一日も早く来ますように、願ってやみません。
ステッセルのピアノと遠軽 佐野真澄
ロシア文化フェスティバルのオホーツク文化とロシア探求取材の旅の中で、2023年5月1日に「ステッセルのピアノ」に会いに北海道紋別郡遠軽町を訪ねました。私が「ステッセルのピアノ」というものを知ったきっかけは、ロシア文化フェスティバルのインターネットミュージアム〈中部〉で、金沢学院大学に日露戦争・旅順攻防戦で降伏したロシアのステッセル将軍から日本の乃木将軍に贈られたというピアノが展示されているという記述でした。その後、作家の五木寛之氏が書かれた「ステッセルのピアノ」(文芸春秋社1996年出版)という小説を読み、ステッセルから贈られたと伝えられるピアノが金沢、水戸、旭川、遠軽にあることを知りました。
今回は、その一つ遠軽にあるピアノを訪ねることになり、どのようなピアノなのか、楽しみにしていました。まず、遠軽という町は思っていたよりずっと大きな町で、JR遠軽駅(石北本線)も歴史を感じさせる趣のある駅舎で、道路も広く、建物も大きい整然とした美しい町でした。その中でもひときわ新しい施設、遠軽町芸術文化交流プラザ「メトロプラザ」のガラス張りの1階エントランスに「ステッセルのピアノ」は展示されていました。そこには、このピアノは遠軽町内にある北海道家庭学校に、90年前から伝わる「ステッセルのピアノ」です。19世紀後半にドイツで製造され、ロシアで使用されていたことが記録されています。日露戦争(1904~1905年)の終結時において、日本の司令官の乃木希典がロシアの司令官のステッセル将軍と水師営(中国大連市旅順)で会見した際の戦利品の1つと伝えられています。1906(明治39)年12月に当時東京巣鴨に所在していた家庭学校に国から寄贈されました。と説明書きがありました。そして、今まで管理、保管されてきた北海道家庭学校(1914(大正3)年留岡幸助創設)のことが書かれていて、そのピアノは1932(昭和7)年の夏、東京巣鴨の本校から北海道の分校に運ばれ、望の岡の礼拝堂に備え付けられたピアノは、家庭学校全体の音楽活動の要となり、家庭学校と地域の人々をつなぐ絆ともなりました。戦後昭和20年には故障がちとなったため一旦現役を退きましたが、作家の五木寛之氏が取材に訪れ「ステッセルのピアノ」(文芸春秋社)が1993(平成5)年3月に刊行され、全国的に大きな反響を呼んだことがきっかけで、地元からこのピアノをよみがえらせようとの声があがり遠軽町内をはじめ全国各地から沢山の寄付が寄せられ1994(平成6)年7月、静岡県のヤマハの工場で修復されることになりました。それ以来、家庭学校の礼拝堂で日曜礼拝や演奏会、クリスマス会、結婚式などの際に多くの人々に演奏されてきました。その後時代も変わり、ロジャース・オルガン(デジタル式教会向けクラシックオルガン)導入などを機に第一線を退くことになり、近年は家庭学校内の博物館で展示されていました。現在は多くの皆様にご覧いただくためにメトロプラザに展示されることになり、優雅な姿は今も変わらず、往時のロマンを伝えています。という説明が、五木寛之氏の2冊の本とともに添えられていました。ピアノは、高さ1250mm、間口1425mm、黒漆塗りのアップライト・ピアノで、暗いところで演奏するときにロウソクを立てた金属の燭台が左右に取り付けられていました。
譜面台の下にはアルファベットの金色の文字で、
PAUL EMMERLING,ZEITZ
SPECIALLY MADE FOR DEMPFH CLIMATE
ORDERD BY M・HAIMOVITCH
[訳]
銘柄:ポール エマ―リング
製造国:ドイツ(旧東ドイツ)ライプツィヒの近く ツアイツ
湿地帯仕様に地区別に作られた
依頼主はM・ハイモヴィッチ(ロシア人らしい)
と書かれています。
両脚の部分にも手の込んだ装飾が施されていました。音が出せなかったのはのは残念でしたが、続いて家庭学校の方に向かいました。この学校は現在は児童自立支援施設で、遠軽町立小学校・中学校の分校も設置されていて、面積439ha(東京ドーム93個分)の広大な山林の中に、様々な施設が点在していました。「ステッセルのピアノ」の置かれていた博物館を、軽部靖文校長の説明を受けながら見学させていただきました。何台ものオルガンや珍しい組み立て式の持ち運びのできるオルガン、敷地内から出土した土器や石器、アイヌなどの民俗資料、生徒さん方の素晴らしい作品など様々な種類のものが展示されていました。そのあと、林の道を登ってピアノが使われていた、大正の香り漂う礼拝堂に行きました。2015(平成27)年に北海道指定有形文化財に登録された建物で、館内正面には十字架の代わりに「難有(ありがとう)」という額がかけられていて、床も椅子も天井も窓枠も木で作られた暖かみのある空間でした。東京に戻ってから、巣鴨から杉並区高井戸に移った東京家庭学校に、北海道の方にピアノを運んだ推移を伺えたらと問い合わせたところ、現在保存庫を修復中なので、完了したら見せていただけるとのことでした。
ピアノに携わる私が、この「ステッセルのピアノ」のことを調べていて初めて知って驚いたことは、遠軽町丸瀬布の北見木材(株)が、日本のヤマハのピアノの響板を100%作っていたということです。ピアノの心臓部ともいえる響板の材料として、北方の冷涼な気候の中で僅かずつ成長する年輪の細やかなアカエゾマツが最適で、その良木を産出するのが丸瀬布付近ということで、その中でも年輪1mmのものを使用するそうです。しかし樹齢200年を超えるアカエゾマツの樹林は、今では数十キロも離れた山中にしかないそうです。北海道オホーツク総合振興局と遠軽町、北見木材(株)の三者は、北海道産木材の様々な楽器への活用を強化して取り組むため「オホーツク音の森」設置に関する協定を結び、植樹祭や育樹祭、枝打ち体験、木の楽器作り体験など、様々な活動を続けています。今育てている木が響板に使えるようになるのは100年後ですが、植えて育てた木を使い、また植える、持続可能な産業にしたいとの思いで取り組んでいるそうです。遠軽の木を使って修復された「ステッセルのピアノ」も、その後100年は美しい音を奏でるとのこと。ピアノに思いを寄せられた遠軽と家庭学校、その他有志の方々のためにも、木立の中の美しい礼拝堂で「ステッセルのピアノ」の音色を響かせていってほしいと思いました
ハクチョウと湖とオホーツクミュージアム 吉田博美
ハクチョウと道東の湖
北海道に立ち寄る渡り鳥のハクチョウを今回の旅では2か所で目にしました。
最初に訪問したのは稚内市の大沼。大沼は稚内空港近くにあり、ログハウスの野鳥観察施設があります。春(4月から5月)はシベリアに帰る途中の白鳥を、秋(10月末から11月初め)にはシベリアから越冬地に向かう途中の白鳥を見ることができます。私たちが訪れたときも、多くの白鳥が羽を休めていました。
大沼は、アイヌ語でシュプントー(シュプン=ウグイ、トー=沼)と呼ばれています。ウグイが多く生息していたのでしょう。湖は、周囲12㎞、面積4.88㎢、かつては宗谷湾とつながっていた海跡湖で、最大水深は浅く2.2mしかありません。
大沼への白鳥の飛来には「白鳥おじさん」と呼ばれる地元の漁師の努力が実った結果だと言われています。昭和63年から地道な給餌活動を開始し、平成元年4月18日に最初の16羽が飛来、その後多い年には5万羽を超える白鳥が飛来したとのことです。今でもシーズンには2万羽ほどがここで羽を休めています。春にはオオハクチョウやオナガガモが見られるとのことなので、私たちが見たのはオオハクチョウだったのです。
翌日訪れたのはクッチャロ湖です。ここでは大沼より多くの白鳥がいました。人間を恐れることもなく、人が近くに立つと餌を期待して近づいてくるほどでした。
クッチャロ湖は大沼、小沼と呼ばれる大小2つの沼が細い水路でつながる海跡湖ですが、標高が低いので、満潮になると3㎞ほど離れたオホーツク海の海水が入り込む汽水湖になるそうです。外周27㎞、面積は1,607㏊、最深部2.5mの水中の水草を餌とする渡り鳥にはちょうど羽を休めるのに最適な湖です。例年飛来する11月中旬とシベリアに戻る4月中旬には1万5千羽から2万羽の白鳥が見られます。シベリアから飛来するコハクチョウの日本最大の飛来地で、白鳥たちは北海道に到着すると、クッチャロ湖か稚内の大沼で最初に羽を休めます。また、日本に飛来するコハクチョウの5~7割がクッチャロ湖を経由するとのことです。「日本最北の湖」と呼ばれ、北オホーツク道立自然公園に指定されるほか、1989年にラムサール条約の登録湿地に指定されました。クッチャロとはアイヌ語で『湖-喉(流出口)(to-kutchar /トクッチャラ)』という意味です。
そして、次に訪れたのは風連湖。湖を望み、「道の駅、スワン44ねむろ」がありました。風連湖は周囲96㎞、面積59㎢、最大水深11mの巨大な汽水湖で、周囲には湿原、森林、砂丘があり、国内で観察される野鳥の半数以上(約330種)をここで見ることができます。10月中旬には数千羽のオオハクチョウが飛来し、春や秋にはシギやチドリの仲間が渡ってきて一年を通して多くの水鳥でにぎわいます。また、海洋性のカモメから高山性のルリビタキやキクイタダキなども見ることができるのも大きな特徴です。国の特別天然記念物のタンチョウ、天然記念物のクマゲラ、オジロワシなどが繁殖するなど、野鳥の楽園としても知られています。
オホーツクミュージアム枝幸
立派な町立博物館で、入場料は無料です。名前の通り、見どころはオホーツク文化と枝幸地方の自然、歴史です。国の重要文化財も多く展示されています。その中でも、オホーツク文化の集落跡の目梨泊遺跡は、北の大陸、南の本州との交易拠点だったことがわかり、発掘された鉄製の蕨手刀や実物大に復元された竪穴式住居が展示されています。また、2018年に発掘調査時に参加していた地元の高校生が発見した「金銅総直刀」は装飾も見事で、刀の下には墓があり、その墓の調査も進んでいるようです。そのほか、デスモスチルスという絶滅大型哺乳類の全身骨格化石の複製があり、日本ではかなり多くの化石(部分的)が見つかっているそうです。展示室の天井から吊らされた全長7mを超える国内最大級のシャチの骨格標本も目を引きます。2010年に稚内の海岸に漂着したものです。また、特別に高畠館長の案内で博物館の収蔵庫に入れていただき、枝幸で発掘された縄文土器、擦文土器の他、昭和26年の文字があった道標、昭和時代の生活道具などを見ることができました。特に、擦文土器の模様を間近で見て、縄文土器との違いがよくわかりました。
オホーツク文化は、古墳時代から平安時代に、サハリンから北海道、千島列島にかけて栄えた海洋狩猟民の文化だと言われ、「日本のオホーツク人とは?」という問いに、高畠館長は特定の民族名はあげずに「DNAによる研究が進められています。」とだけ答えられました。最後に、枝幸町音標の沖合にゴメ島という周囲約1㎞の無人島があり、そこには続縄文時代からオホーツク文化期にかけての遺跡があると教えられ、車窓からゴメ島を眺め、枝幸町をあとにしました。
道東における日本正教会の歴史と、上武佐と釧路の聖堂 福井 学
今回の取材旅行で、私たちが訪問した道東の2つの正教会は、2つの特筆すべき点を持っています。一つは、日本における正教伝道史のなかで、いかに道東地域に布教がなされたかという点であり、もう一つは千島列島における正教伝道の歴史との関連です。
北海道における正教会と言えば、日本における正教の伝道の初穂となった函館が思い起こされますが、札幌に移住した信徒を中心に教会の開基がなされた札幌、そして道東における布教の中心的役割を果たしつつも信徒の減少により大正初期に消滅した根室教会と、その後の道東の中心教会となった釧路を、重要な拠点として挙げることができます。
なかでも、道東においては、宮城や秋田をはじめとする本州からの開拓民が教会の礎を築くうえで大きな役割を果たしたのが特徴です。
まず我々が訪れたのは、広々とした牧草地と防雪林の続く大地に素朴な姿を現す、木造の上武佐ハリストス正教会(生神女就寝聖堂)です。(現在の聖堂は1978年建立)。
明治時代、道東には東北から多くの開拓民が入植しましたが、彼らの多くは一家の次男・三男で宗教を持たず、また開拓民の暮らしは大変厳しいものであり(我々を案内して下さった現信徒の方が祖父から聞いた話によれば、朝目覚めると、寝床の横に雪が積もっているような生活であったとのこと)、正教は彼らの心のよりどころとなりました。1897年(明治30年)に根室で受洗し、上武佐の駅逓取扱人として勤務していた信徒が、駅に集まる人々に布教したのが当教会の始まりとされ、初代教会は1919年(大正8年)に建立されています。
当教会には、山下りんのイコンが全15点所蔵されています(十二大祭、ハリストス復活、イコノスタスを構成するハリストス像と生神女マリア像)。
イコノスタスの中心をなす王門には、戦後ソ連による占領によって故郷を追われ、当地に移住した色丹出身の島民が、色丹島の聖堂から持ち帰ったキリストの彫像が掲げられています。持ち出す際にどうしてもうまく外すことができず、彫像の右手を折って持ち帰ったとの話。
イコノスタスに描かれているイコンのうち、王門上の最後の晩餐と、聖堂内に掲げられている布製イコンはロシア製。その他のイコンは日本人神父によって描かれたものとされる。
現在、当教会の信徒数は18戸。全家庭が入植者の子孫であり、先達たちが聖堂敷地内にある納骨堂と市内の墓地に葬られています。